かつて勤めてた奈良女子大学の『日本アジア言語文化学会報』(前身は『国語国文学会報』)から、「書いた本」の自己紹介を書いて欲しいとの依頼があって、昨年上梓した『漢文スタイル』について寄稿しました(第1号・通巻54号、2010.11.10発行)。1つ前のエントリーに書いた、卒論や修論の問題意識がいまも続いているということとも重なるので、アップしておきます。私が奈良女にいたのは1997年4月から2000年3月(併任で2001年3月)まで、決して長い期間ではありませんでしたが、中身の濃い時間でした。いまでも付き合いのある先生や学生が多いです(その時は学生だったけど今はもう先生という人もいます)。それはともかく、書いた文章はこんな感じです。
研究者としては、もちろん論文を書くのが仕事である。しかし論文しか書いたことのない研究者というのも、ほとんどいないに違いない。同じ分野の研究者以外を読者に想定した文章、いわゆる一般向け(という言い方は好きではないが)の文章を求められる機会は少なくない。
そうした需めに応じてあれこれ書いてきた文章を一冊にまとめて上梓する機会に恵まれた。タイトルを迷った揚げ句に『漢文スタイル』としたことについては、本書の「あとがき」をご覧いただければ幸いだが、もともとその時々の興味関心に従って勝手気ままに書いてきたものが大半だから、どのような構成にするか、どの文章を採ってどれを採らないかについてもまた、紆余曲折はあった。
結局「詩想の力」「境域のことば」「漢文ノート」の三部構成に落着してみると、これはこれで最初からそうであったような気になる。第Ⅰ部ではことばとしての詩の力、第Ⅱ部では場所とことばと人とのかかわりがテーマとなっているが、たしかにそれは私自身の志向を反映している。卒業論文で潘岳「悼亡詩」を扱って以来、詩が人を超えてもつ力については、ずっと考え続けているところであり、とばによって人が自らの居場所や自画像を作り上げていくことも、修士論文以来の課題である。進歩していないのかもしれない。
第Ⅲ部の「漢文ノート」は、二ヶ月おきの連載をまとめたもの、筆任せには違いないが、「中国」や「古典」の枠を超えて拡がる文学の魅力をしるすことを主眼としているから、やはり私なりの研究のありかた──中国古典を論じつつ近代東アジアにも目を向けたり──と深くかかわっている。
一般向けという言い方が好きではないと述べたけれども、そこには、わかりやすくとか、水準を下げてとか、どこか啓蒙ふうのニュアンスがつきまとうからだ。その意味で、本書に収めた文章は、一般向けというよりは、あくまで論文という形式にとらわれずに書いたものであるに過ぎないのかもしれない。ではあるが、視点と論旨と論拠をかっちりと固めて書く論文とは違うよさが、どこかあればと思う。読者を説得にかかるのではなく、読者とともに何かを考えることができる本になっていれば、読者がまた何か別の世界を想うきっかけとなる本になっていればと願う。
最後の「一般向け」についての話は、またどこかでしたいのですが、要するに、「論文」はあらかじめルールとコンテクストが共有されている専門家向けの形式であるに過ぎないのに対し、「一般向け」というのは、ルールとコンテクストを共有しようとするところから始めようとする文章ではないだろうかということです。レベルの高低ではないはずです。ちなみに、「一般向け」という注文で文章を書く時、私は、専門を大きく異にする(たとえば生物学の)同僚にちゃんと読んでもらえるかどうかをひそかに基準にしています。たぶんそれはそんなに間違っていないと思うのですが。