Thesis

R0010451 専攻領域の少し離れた同僚の先生とペルー料理とワインで歓談していたときのこと。結局、卒論や修論でやったことを今でも追いかけているよね、という話になりました。われながら進歩ないなあと思いつつ、逆に、そうだからこそ研究を続けられているのだろうとも思いました。

 「卒論や修論でやったこと」というのは、素材とか領域とかではなく、問題意識です。この点も互いに共通していました。もちろん、素材や領域は繋がっています。ぜんぜん別のことをやっているわけではありません。しかし、核になっている部分は、もう少し深い「問い」です。その「問い」さえあれば、じつのところ、素材や領域は変わっても研究を続けることはできます。しかし、「問い」が無ければ、いくら同じ素材や領域を扱っても、研究を継続することは、あるいは深めることはできないでしょう。そもそも自分の営為が研究なのかどうかすらあやふやになってしまうのではないでしょうか。いわゆるアカデミックポストにつくことと、研究者として自立することは、違います。前者よりも後者のほうがはるかに難しいと思います。きちんと「問い」を立て、継続することができなければ、大学の先生にはなれても、研究者にはなれない。

 この季節は、たくさんの卒論や修論を読みます。よく書けているものもあれば、そうでないものもあります。論文として体を為していないものも時々あります。そうしたときは、さすがに口述試験の時にかなり厳しく注意をします。しかし、私が最も大切だと思っているのは、そこに「問い」があるかどうかです。そしてその「問い」が、長持ちしそうな(というとちょっとヘンですが)ものであるかどうかです。たとえ論文としての完成度は低くても、そこに大きな「問い」があれば、それでいいのです。もちろん論文としての評点は低くなりますが、それはしょうがない。

 大きな「問い」が隠されているのに、こちらがわからない場合もあるでしょう。本人もわかっていない場合もあるでしょう。しかし論文は、その「問い」を明るみに出す作業です。少なくとも卒論や修論では、その「問い」が何であるかを示すようなものを書いて欲しいと思いますし、そうしておくことで、「それから」があるのだと思います。研究者になるにしてもそうでなくても。