今年も論文読みの季節になりました。とくに修士論文は枚数も多く、今年は駒場(比較文学比較文化)と本郷(中国思想文化学)とあわせて15本読むことになりましたから、なかなかたいへんです。と言っても、読むこと自体は、教えられることも多く、発見に満ちているので、口で言うほどたいへんではないかな。
とくに駒場で提出される論文は、ジャンルも多岐にわたりますから、論じている対象についても自分なりに理解を持とうとすると、改めて当該のテクストを読み返したり、まったく知らない事象について勉強し直したりしなければいけないのですが、それも、時間との勝負とは言え、あまり苦になりません。気が重くなるのは、評価を下さなければならない時です。論文によっては、かなり悩みます。
オリジナリティがあるか、論旨が通っているか、先行研究を踏まえているか等で点数をつけていくのも、一つのやり方です。学会誌への投稿論文査読と基本的には同じというわけです。そうすれば、「仕事」は多少効率的にはなりますし、私もそうした基礎作業はします。
ただ、修士論文についてはちょっと違う見方もします。端的に言ってしまうと、研究者として書くという意識がどこまで徹底されているか、そこに甘さはないか、ということを見ます。とくに、論文が博士後期課程進学のために提出されている場合、その自覚の有無は重要ではないでしょうか。もちろんそれは、研究者としての私自身にただちに跳ね返ってくる問いです。
たいがいの場合、口頭試問では、提出された論文への自己評価を誰かが問います。儀式ではなく、それが重要なことだからです。すらすらとでなくともよいから、ごまかさずに真摯に答えて欲しいと思う瞬間です。自身の能力を見きわめ、向上させようとする意識があるかどうか。さらに言うと、その向上のための手順を自分で確保しているかどうか。論文の出来も、結局そこに繋がっていますし、将来性云々も、そこから浮かび上がってくるんじゃないかなと思います。そういったことを含めて、私なりの評価をします。
何だか説教じみたエントリーですが(ここで『論語』か何か持ち出せばもっと効果的?)、毎年、梅が咲いて桜が待たれるこの季節になると、こんなふうに思ってしまうわけです。