Worlds

DSC00478.jpg前回の更新がちょうど4年前、2011年の4月でした。ずいぶん放置してしまっていて、お恥ずかしいかぎりですが、これからぼちぼち更新していくつもりです。よろしくお願いします。

4年の間に、いくつか連載を始めたり、何冊か本を出したりしました。『読売新聞』に隔月で掲載しているコラム「翻訳語事情」も、2011年11月に始まっています(苅部直さんと交代での連載なので、苅部さんのぶんはたしか10月に始まっていると思います)。今月は、「世界」という翻訳語について書きました。

 世界は翻訳語である。といっても、近代になって西洋語から翻訳されたものではない。仏教の経典が中国でさかんに翻訳され始めた時期、おそらく3世紀ごろに生まれたことばだ。
日本語で育った多くの人が翻訳と聞いて最初にイメージするのは、たぶん西洋語からの翻訳だろう。何よりこのコラムもまた、その代表的な例である翻訳漢語を取り上げるのを習いとしている。しかし翻訳という行為が大規模に行われた最初は、じつは仏典が中国に伝わった後漢から唐にいたる時代であった。「翻訳」という漢語自体が、もともと仏典の翻訳を指すものだったのである。
「世界」の原語は、サンスクリットのloka-dāhtu。lokaは空間、dhātuは範囲。lokaは「世間」とも訳されるように、人々の生きる場所という意味の広がりをもつ。他方、過去と現在と未来を「世」、東西南北そして東南・西南・東北・西北、さらに上・下を「界」とする解釈も、仏典にはある。それならば、「世」は時間、「界」は空間である。
日本語にも、世界ということばは取り入れられた。早くも『竹取物語』には、仏典の意味をやや離れて、あたり一面などの意味でも用いられている。もちろん、世間や世の中という意味でも、あるいは、ここではないどこか未知の場所(つまり別世界)という意味でも、日本語の文脈に溶けこんで広く使われた。それは今でも変わらない。
オランダ語のwereldや英語のworldの語義を一覧すれば、それを世界と訳したのは、なるほどうまく対応したものだと感心する。辞書によっては、世間、天下、乾坤などの訳語も見られるけれども、これらの語の示すところが、そこに生きる人々の意思を超えて成立している印象が強いのに対し、世界は、そこに生きている人の意識によって、大きくも小さくもなる。ある場合は世間と同義でありながら、ある場合は地球と同じ広さにもなる。この自在さは、たとえばグローバルなどというカタカナ語にはちょっとない。翻訳語としても日常語としても年輪を刻んできたことばの強みである。
気になるのは、せっかく仏典では時間と空間の双方を表わす語として説明されながら、現代の「世界」は同時代の空間への意識が強く、過去から未来へと複数の世界が重ね合わされていく感覚が薄くなっているように感じられることだ。単一で無時間的な「世界」への志向がそこにあるのだとしたら、それは世界にとって大きな危機ではないだろうか。

コラムには、【world ▸ 世界】というタイトルと「世間から地球まで大小自在」という見出しがついています(見出しは新聞社のほうでつけます)。全体にやや舌足らずな感じもしますが、要するに、三千世界と云うことばがあるように、もともと世界は複数で、それが「世」と「界」からなる「世界」という語の生命線なのに、ということなのでした。もちろん、現在の私たちの「世界」が、単一で非歴史的な何かへ進んでいるのではないかという危惧もあります。新聞コラムとかテレビのコメントにありがちな「危惧表明文体」で終わっているのは私の至らなさですし、「世界」とは何かについては、もっと考えねばならないのですが、それはそれとして、「世界」という語が、仏典語として、日常語として、近代語として、さまざまな使われ方をしてきたということに、コラムを書きながら(短い文章ですが、これを書くためには、さまざま事実確認をせねばならず、いろいろな資料にあたりなおします)、改めて感じ入ったことでした。